「データ主権」を守れ! 独仏主導で欧州独自のクラウド「ガイアX」を開発へ

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2021年2月2日

【文:熊谷 徹】

「欧州による、欧州のためのクラウドを創る」。こうしたスローガンの下に、ドイツ連邦政府は2019年10月29日に、EU域内の企業、研究機関、市民のデータを保護しながら経済と社会のデジタル化を進めるために、独自のクラウド「ガイアX」を構築する方針を明らかにした。現在すでに約300の経営者団体、企業団体などがプロジェクトに参加している。

独仏主導でITインフラを構築

ドイツでは連邦経済エネルギー省と連邦教育研究省が主導し、ドイツ産業連盟(BDI)、ドイツ IT・通信・ニューメディア産業連合会(BITKOM)、ドイツ機械工業会(VDMA)、フランスからはフランス企業運動(MEDEF)などが参加している。
独仏両国が中心となっているのは、最初の構想を2019年2月にドイツとフランスの経済大臣が発案したからである。
このプロジェクトの背景には、製造業のデジタル化に伴い、機密性の高い製造ノウハウや顧客データが、米国や中国のクラウドに保存されることについて、ドイツの企業関係者から強い懸念が出ているという事実がある。
欧州諸国が共同でITインフラを構築するという初の試みは、着々と進んでいる。2020年9月にドイツ政府はフランスなど他のEU加盟国とともに、ガイアXを開発するための非営利機関をベルギーに設立した。現在、プロジェクトに参加している団体のエンジニアたちが製造業、交通部門、エネルギー業界、農業など様々な分野のための実証実験を行っており、2021年の初めには最初のプロトタイプを構築する予定だ。
ガイアXに関する提言書の中でドイツ連邦経済エネルギー省は、「このプロジェクトの目的は、ヨーロッパのために、競争力があり、信頼性と安全性が高いクラウドを構築することだ」と述べている。
ガイアとは、ギリシャ神話に登場する女神の名前で、地球を象徴する。つまり欧州人たちは、デジタル化経済の足下を支える「地球」のような、基礎インフラストラクチャーを築こうとしているのだ。

インダストリー4.0によってデータ量が飛躍的に増大

連邦経済エネルギー省がめざしているのは、多数の企業のサーバーのキャパシティーを組み合わせることによって、分散型のクラウド・システムを構築することだ。ガイアXはオープン・ソース・システムであり、欧州の大手企業から中小企業、スタートアップなどあらゆる企業が利用できるようにする。
連邦経済エネルギー省は提言書の中で「ガイアXは、開かれたデジタル・エコシステムのための揺籃の地となる。我々はこのシステムの中で安全性と信頼性を確保しながら、データを利用したり他者と共有したりできるようになる。我々の目的は欧州の国家、企業と市民のために、イノベーションを振興するために必要なネットワーク化された次世代データ・インフラを提供することだ」と説明している。
企業が安心してこのクラウドを利用できるように、データ保護には細心の注意を払う。
現在クラウド・システムを運営しているEU域外の企業も、ガイアXの原則を守る限りこのクラウドを利用できる。
ガイアXが活躍する重要な分野の1つは、製造業のデジタル化プロジェクト・インダストリー4.0である。このプロジェクトは、2011年に連邦教育研究省やドイツ科学アカデミーが提唱した。
インダストリー4.0の技術を使うスマート工場では、工作機械と部品が情報を交換し合うことによって、製造工程の自動化を図る。リアルの組み立てプロセスをデジタル化した「分身」を作ることによって、リモート製造などを可能にする。
さらにメーカーは、顧客が買った製品からリアルタイムで送られてくるデータを人工知能を使って分析することによって、新しいサービスやビジネスモデルを提供する。
さらに近い将来5Gテクノロジーが実用化されると、通信量も飛躍的に増加し、蓄積が必要なデータ量はさらに増える。
つまりインダストリー4.0が実用化されると、製造業界が扱うデータの量は膨大になる。このデータを蓄積・保管するには、従来のサーバーでは容量が不十分であり、クラウド・システムが必要になる。

データ主権を重視するドイツ人

現在日本でも欧州でも、すでに多くの企業が米国のIT企業のクラウドを使っている。それにもかかわらず、なぜ欧州諸国は独自のクラウドを創ろうとしているのか。その問いに答える鍵は、「データ主権(Datensouveränität)」という言葉だ。ドイツ政府は提言書の中でこの言葉を頻繁に使っている。
データ主権とは、「自分や自分の仕事に関するデータをどこに蓄積し、どのように加工するのを決めるのは自分だけだ」という原則である。これはEUの個人情報保護法の原則でもあるが、欧州人たちは自分に関するデータを、他者が無許可で政府に提供したり、商業目的のために加工したりすることを断固として拒否する。

クラウド市場は米中企業が支配

ドイツ政府が欧州独自のクラウドを創設する理由は、ドイツ企業から、米国や中国の企業が運営するクラウド使用について、不安の声が高まっていたからだ。
実際、クラウド市場は米国と中国企業によって支配されている。米国の市場調査会社シナジー・リサーチ・グループによると、今年上半期の世界のクラウド・インフラストラクチャー市場の内66%を米国のアマゾン、マイクロソフト、グーグルと中国のアリババが占めている。4社のマーケットシェアは、年々増える傾向にある。ちなみに米国のガートナー社は、この4社の2018年のマーケットシェアが75%だったと推計している。いずれにしても、世界のクラウド市場が米中の少数の巨大企業によって支配されていることは、間違いない。欧州と日本の企業は、クラウド市場では「外様」である。

ドイツの経済界からは、米中による寡占状態について危惧する声が出ている。BITKOMのアヒム・ベルグ会長は、「外国との相互依存は受け入れられるが、一方的な依存は絶対に避けるべきだ。ドイツ政府は30年前に東西統一によって国家主権を取り戻したが、我々はテクノロジーに関する主権を取り戻さなくてはならない」と主張する。
この背景にあるのは、米国と中国の間の貿易摩擦である。政治的な目的を達成するために、関税の引き上げや特定のメーカーの製品の取引禁止など、これまでなかった「手法」が取られる可能性がある。
ドイツの経済界では、「中国のあるメーカーは、米国政府から事実上の締め出し措置を受けた。将来EUと米国の貿易摩擦が深刻化して、米国政府がドイツ企業に米国のクラウドの使用を禁止したら、どうなるだろうか。そのような可能性は低いとはいえ、我々は万一の事態に備えておく必要がある」という声が強まっているのだ。
多くのドイツ企業がメールシステムにクラウドを使用している中、米国のクラウドが使えなくなった場合、業務がストップする危険がある。
さらに米国や中国政府は、民間企業に対し、安全保障上の理由がある場合には、保有するデータを政府に閲覧させることを法律で義務付けている。2018年に米国の大統領が署名した「クラウド法」はその一例だ。この法律によると、米国のIT企業は政府に要求された場合、クラウドに保管しているデータを提供しなくてはならない。しかもデータ提供の義務は、米国にあるサーバーだけではなく、米国外にあるサーバーにも適用される。この場合、ドイツ企業がクラウドに保管している機密性の高い製造ノウハウや顧客データが、政府によって閲覧、分析される可能性がある。欧州人たちにとって、これはデータ主権の侵害である。

ミッテルシュタント(中小企業)のデータ保全への不安

米国とドイツ、EUも自動車輸出やエネルギー問題をめぐり火種を抱えている。ドイツ工学アカデミーのカール・ハインツ・シュトライビヒ会長は、警告する。彼は「米国政府はメルケル政権に対し、ロシアからドイツへ天然ガスを輸送するパイプライン・ノルトストリーム2の建設を中止するよう圧力をかけている。もしも米国政府が、『パイプラインの建設をやめなければ、ドイツ企業が米国のクラウドを使えないようにする』と宣言したら、我々はどう対応するのか?」と危機感を露わにする。ドイツ人はリスク意識が高く、用心深い民族だ。このため彼らは「危険が現実化する可能性が低くても、プランB(万一の時に備えた代替案)を持っているべきだ」と考えたのである。
特にドイツ企業の約99%を占めるミッテルシュタントにとっては、自社が開発した製造ノウハウが生き残りのための鍵である。ミッテルシュタントの間では、「インダストリー4.0を実用化するのはよいが、我が社の重要なノウハウやデータが米国や中国のクラウドに蓄積されるのは、果たして安全だろうか」という危惧が残っている。
このため一部のミッテルシュタントは、重要な製造データや顧客データを、クラウドではなく工作機械や製造現場のサーバーに保管する「エッジ・コンピューティング」という技術を使っているほどだ。
連邦経済エネルギー省によると、ガイアXは、既存のサーバーとエッジ・コンピューターを接続して、米国・中国の民間企業ではなく欧州の非営利団体が管理するクラウドを構築することにしたのだ。
同省は提言書の中で「現在世界のクラウド市場は、欧州以外の国の企業によって寡占状態にある。これらの国々は多額の資金と強力な市場支配力によって、クラウド・インフラを急激に拡大しつつある。しかも世界では大国間の緊張が高まりつつあり、通商紛争の種は絶えない。こうした中で、欧州は長期的に、他国の企業に依存せずに独自のクラウドを建設する必要がある」と説明している。

日本にとっても対岸の火事ではない

このためドイツ政府は、欧州企業が安心して機密性の高いデータを保管できるようにするためには、欧州独自のクラウドの構築が不可欠と考えたのである。
日本の多くの企業は、米国企業のクラウドを使っている。日本政府主導で、独自のクラウドを構築し、米中のIT企業への依存から脱却しようという試みは、まだ伝えられていない。だが欧州の政府や企業が今日のクラウド市場における、米中企業の寡占状態について抱く懸念は、我々日本人にとっても対岸の火事ではない。日本政府や企業、学界も、なぜ欧州人たちが独自のクラウドを持とうとしているのかについて、背景を学ぶ必要があると思う。

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熊谷徹氏プロフィール

1959年東京生まれ。1982年早稲田大学政経学部経済学科卒業後、NHKに入局。日本での数多くの取材経験や海外赴任を経てNHK退職後、1990年からドイツ・ミュンヘンに在住し、ジャーナリストとして活躍。ドイツや日独関係に関する著書をこれまでに20冊以上出版するだけでなく、数多くのメディアにも寄稿してドイツ現地の様子や声を届けている。